昭和五十四年九月五日 朝の御理解
御理解第九十三節 「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ」
これはお取次にたずさわる者に対する、まあ言うならば御理解でしょうね。神の前をあけておく事はならんと、仲々出来る事ではありません。または座っておくだけだから楽なようですけども、ここへ神の前をあけて置く……もうよっぽど信心が好きであり、そして生きた神様のおかげを心に受け通しに受けておらなければ出来る事じゃない。もう本当に一時間でも、もうそれが毎日座らんならんと言うと仲々むつかしい。ここで修行しとる先生方が、御祈念が終わったあと、あれは六時から七時まででしょうか、一時間づつここで神習致しとりますけども、なかなか続く人はおらんですよ、一時間ですけどね。それを例えば終日ですね、もう神の前をあけんという事はまあ大変な事、だからその事が有り難くなる稽古ですね。
三代金光様はね、十三のお年から、もうそれこそ終日お座りぬきになられた。朝の四時から夕の四時までね。皆さんも御承知のとおり、まあそれこそ、初めの間はもう辛うて辛うてよう泣いたと仰せられる。それを辛抱しいしい辛抱させて頂きよったら、思う事もなくなり欲しい物もなくなり、いうならば我情も取れ我欲も取れて、ただ有り難うて有り難うてと言うふうに、その御結界奉仕をなさられるその事が有り難い事になられた。だからよっぽど、信心辛抱して辛抱の徳を受けなければできる事ではないね。
私共も、やっぱり椛目時代は修行される先生方も、久保山先生、久富先生、それから女の藤原と言う先生がおられましたが、まあだ若先生が小学校でしたけれども、四時から五時までの一時間は若先生が奉仕をさせて頂きました。ように椛目のお広前はいつ参っても、だから御結界があいた事がなかった。そのほかは、みんな私が一人で奉仕させて頂いとる。けども段々、ここでも沢山な修行生が出来られて、そしてまあ一時間づつでも御用さしてもらう、移り変わりに御用さしてもらう、と言うので私の御用の時間も段々、初めの間は、まあ私が八時半まで奉仕させて現在さして頂いとる。ところが、なら昨日のように、まあ突発的な事でここを御無礼さして頂いて退がらせて頂いたんですけれども、まあおかげを頂いてもう退がったらもう本当に、もうそれこそ大変な七転八倒するほどの苦しみでした。それでもう一時でしたけども、家内がすぐお神酒さんを頂かしてくれましたら、お神酒さんが此処へ入ったと思うところ、時点からやわらいで、まあおかげを頂きまして一時間あまりは、まあやっぱせきましたけれどもおかげ頂いた。
丁度一昨日から昨日にかけて、目を閉ると『こう桜の花がパラパラと散るところ』を頂いとったんです。どういう事だろうかなあ、結局まあ散れば同じもう庭のちりだと、言うような歌がありますけれども、やはりあの散りぎわがいい、その散りぎわをきれいにせよ、と言う事かと私は分からなかったんです。そしたら、昨日そういう苦しい乍らも神様におすがりさせて頂いたら、大学目薬のあのう、こう看板がありますよね、絵があれを頂いた。それで神様から私がもちっと、もちっと信心が奥所に進む、もちっと信心が出来ておったら、こういう苦しみはせんでええと神様は仰しゃるね。まあそうだと私も思いますけども、まあおかげを頂いてもう兎に角ほんな一時の間に、もう目が引っ込んだごたる気がしましたけど、まあニラの、丁度私はお腹が悪い時には必ず「にら雑炊」を頂きます。それで、家内が丁度昨日の朝、ニラを誰方か持って来て下さっとったそうですから、「にら雑炊」をしてくれましたから少しばっかり頂きました。
そして、ちょっと新聞を開かせて頂いてから、あの一番初めに大きく頂いたのが、話家の何とか円生という人が急死した。円生急死という処を頂いたんです。円生とは、まるい生まれると書いてある。まあ私の事とこう思ったんです。だから私が例えば昨日の朝急死した。急死するような、ま、私はいっも、死ぬる生きるという事をただあの世行きというふうには思いません。自分自身がもう今の私はね、もうその一時間後の私とは違うんだと。昨日の私はもう亡くなってるんだと。今日の私は、新たな新しい生まれ変わった私だというような頂き方を致しますから、合楽の信心には、いっも何とはなしに生々とした、何かいっも変わり映えを感ずるでしょ、皆さんが私もそうなんです。
それで、私はいっもそれから繁雄さんの奉仕を受けるわけですけれども、昨日は兎に角、朝の御用を数時間御無礼しとるから、それをその代りに御用さして頂こうと思うて、昨日は十一時から此処へ出らして頂いた。まあいうならば、大体は二時からの奉仕ですけども、私は一時には出てきますけれども、まあ二時間なら二時間という時間だけは、あの取り返しとかなきゃいけない。そんな気持ちもあるし、それからあのう段々此処へ座らせて頂いたら、いやあ親先生座って頂いとった、と言うて手をたたかんばかりにして、お参りしてくる方達があるんです。私が座っとる筈ないところに座ってるもんですから、今日は格別な、特別なと言ったような願いがずっと続きました。というような事で、ははあ私がこの時間に座るという事は、皆もこんなに喜んでくださるし、また私もいうならば、今日も大坪総一郎は急死したんだ、新な生まれ代った。ならば少しはましな変わり映えのする、生まれ代り映えのする私でなからないけないから、明日からは、この事を実行させて頂こうと思いました。
昨日は神愛会でございましたから、昨日沢山先生方が集まりました。中に一番最後に若先生が発表しておりましたが、昨日、昨日の事を言ってるのですね。初めて朝の、最近親先生の御用の時間は自分が承らせて頂いて、もう大変な事だなあ、容易ならない事だなあ、とても人間心使っとってここで御用は出来ん、と思ったというのです。あそこへ三、四十分間だけは、もうここの電話がずうっとかかり通しです。遠隔地から、その電話の一言一言でもそれは大変な事である、大変な問題である、どうでもという願いである。とても人間心では此処には座れるとこじゃない。いっも思うておりましたけれども、昨日はひとしおその事を感じさせて頂いた、というふうに申しておりました。そしてもう本当に、もう一切がおかげと親先生が仰しゃる、それがいよいよ実感的に分からせて頂きましたという。 親先生が昨日、いうならばもう一週間位たっとったらしいんですね、あのプリンの冷蔵庫に入れたっを、そのまま忘れておるわけです。忘れておる頂いてなかった、それをま、それがどうか分からんけれども、それが当たったのだろうと、というのでその、いうなら腐ったプリンでも、親先生の場合は生々として生きてきておる、という事を言っとりますね。もうそんなもんな捨ててしまうものが、その腐ったプリンがですね、いうならば、でお腹が痛んだ、痛んだ間に、神様親先生がどういう信心を新に進めて行かれるかと思いよったら、今日の話を頂くと明日から十一時から座ると言うておられる。プリンの一つが生きた。
こんなにまで、成程親先生が言われるように、どういう腐ったプリン一つでも、神愛だという事を分からしてもらう、生かさせて頂くとはこう言うことだと、いう事が分かったという話をしてました。成程そうだ。夕べまた退らせて頂いて、冷蔵庫あけましたらまあだ二つばかり入っとりますもん、で家内に「お前はこげんとば、お前今日早よ捨てとかじゃごて」と言うたら、ま、言うて捨てさせましたけどね、ならいうなら、プリンがそのように神愛の固まりであったからと言うて、取っといてまた食べなんならんと言う事じゃないですよ。だからあのお互いがですね、生かすと言うような事でも妙な理屈をつけちからですね、なら残っとるその二つのま、プリンもこれは神愛の固まりと言うて食べる、そういう事じゃないです信心とは。捨てるところはすてる、けれどもまさかの時、そういう時に当たっとった場合は、それを一切生かしていくのが信心だ、という事の為にはです、ただ、ならどういう事かというと、ちょっと自分の心を神様へ向けるという事なんです。
今朝方、こちらへ出らして頂きます時に、あのう頂きました事なんですけども、こう『×』の字を頂くんですよね、×の字、ちょっと心の中で書いてごらんなさい。そして上にちょんを打って一を頂いたんです、どげんなりますか、×の字に上に一の字を書いてちょんを打ったら「文」という字になるでしょうが。いうならば昨日一日の、いうなら大坪総一郎急死、そしてその次の瞬間には大坪総一郎誕生。その誕生した、いうならば大坪総一郎は、少しは変わり映えのある生まれ変わりじゃなかにゃならんと願って、なら十一時から二時間の、いうなら御無礼をうめさせて頂こうという気で座ったら皆が喜んでくださる。神様が喜んでくださるならば、明日からこうさせて頂こうとちょっと心を使うた。文という字を、私は文という事は、交うと言うふうに頂いたんです。通ずるという事ね。私と神様がです、いうなら交うと言うこと、先日から頂きます、あの二、三日前でしたかね、寸が尺になるとね。一寸の信心しか出来とらんのだけれども、どうでも、ここ一尺のおかげを頂かねばならないとこう言う。そんならば一寸心を神様へ向ける工夫をせよと。私はその寸という字をちょっと、と言うふうに頂いたんです。感じたんですね。
そこからです、頂けないおかげが言うならば頂けるね。例えば死に生きと言ったような大変な問題であっても、生のおかげ、いうならば命びろいをさせて頂くほどしのおかげになってくる、心の使い方一つなんだ、そのちょっと、いうならちょいと点を打って一を引いただけの事なんだ。それが×の字という事だったら、まあ死ぬるというふうに極端に言うたら言いましょうかね、おかげを落とすと、×の字もうペケだ。それに私の心が生々と、ちょっと点を打って一の字を引いただけでね、神様にそれは交う事になって助かったという事になるでしょうね。
だから、何時もその心というものが、そういうふうに生々と神様へ向けられる姿勢と、いうものが出来ておらなければならない、為には、ここの最後にありますようにね、人を見下げたり、汚がったりと言ったような心の有る時には神様を頂いてない時なんですね。只、その怠慢のために、例えばならお広前をあける、いわゆる怠慢無礼という事であるね。だから、そういう怠慢無礼の内容に心掛けさして頂く時には、それはまあ成程泣く泣く辛抱しいしいに、という事も有ろうけれども、それを辛抱し抜いていくうちにです、有り難うて有り難うてという境地も開けてくるしね、思う事もなくなりゃ、欲しいものも無くなってくる心の状態が開けてくるんだ。
昨日、その後に昨日の朝の研修のまとめを、皆さん四、五人聞かして頂いて、中に坂根先生が発表しとりましたがね、昨日の、私のお腹が痛い事を取り上げて言っているのですね、秘結しておった、それが今度は下痢になったと言う処をですね。出過ぎりゃ出過ぎるというて不平を言う、出らにゃ出らんで不平をいう、丁度よい時は当たり前と思うという表現をしてました。素晴らしいですね。私はもうそれだけで、塗板の掲示はそれにしなさいと、昨日は言うた事でした。出過ぎりゃ出過ぎるで、いうならば不平をいうね、出らにゃ出らんで不平をいう、丁度よいと思うとる時には当たり前と思うとる。こういう事では信心にならんという事をま、発表しとります。お互いがね、これは本当にそうです、おかげを受けておる事が沢山あるのにも、そのおかげを受けておる事には目をふさいでおる、耳をふさいでおるね、だから聞こえない。
昨日、山口の長田先生が発表しとられましたが、もう大変な広大なおかげを頂いたと言うて、あの先生は皆さんも御承知でしょうけれども、大変耳が遠いのです。もう、あのあちらへ帰って合楽のテ-プを聞かして頂いても、もう一番、目盛りが一から十まである、もうガンガンいう事大きくする。九というところ迄せんと聞こえなかった。それがあのう、それを聞くたんびんに耳の中が何かジンジンするような感じであった、ところがおかげを頂いてから、はっきり聞こえるから、目盛りの所をずうっと下げていったら、その五でも聞こえる四でも聞こえる三でも聞こえる、二でも聞こえるようにおかげを頂いておる、という昨日発表をされました。
親先生が本当に、和賀心時代を世界にとか、本当に合楽の皆さんが、いうなら世界万国に布教にでも出ろうという、あの御精神というものがです、本当に尊い事なんだけれども、それを聞こうともしなければ聞こえない信者氏子が沢山おる。私が聞こえないから感じたんですけれども、何かいうならば聞こえる、聞こえないのセンが、ちょっとずれておっただけでも聞こえ無かったのが、おかげを頂けばこのように聞き取る事が出来るとね。だから根本的に、親先生が言われる世界の総氏子に、合楽理念をというふうに言われるが、これを聞いてもらうために、そこん処をまずそのまいっちょ向こうの、聞き取る耳を頂かせてもらえれる事を願わないけん、と言ったような意味の発表をしておられました。まあ大変な、本当自分の耳が聞こえないと言うことの中から、そういう大変な事が祈れれるようになり、思えれれるようになる。という事は大変なおかげだね、と言うてまあ聞かせて頂いた事でしたね。
何かがそこにある、おかげを頂くそこからです、今迄自分の心の世界と言うのが、ずうっと広がってくるね。そういうあの、おかげをまあ昨日は頂きましたがね。ま、今日の御理解には少し離れておるようにはありますけれどもです。これは、だから今日のようなふうにして頂きますと、これは取次の先生だけに、頑張れ頑張れと言うておられるみ教えではなくてね、皆も成程合点がいく生き方、心の使い方、いうならば腐ったプリンでも生かすという事が、それが神愛であった、という事が分かるような頂き方ね。だから自分の心の中にですね、例えば燻っておるものね、もやもやしておるもの、どうして、これはおかげにならんじゃろうかと思ってるだけのものね、それには、やはり燻っておるんだから、ちょっと火をつける心にならなければだめだ。
燻って、自分もいやなら周囲もいや、それにちょっと、なら今日の御理解でいうとね、ちょっと点を打って一の字を引いただけで、何時までも×の字は×の字である、そのおかげがですね、神様に通うというおかげになるね、神様が聞き届けてくださる。まあ極端に言うと死ぬる者が助かると、いうほどしのおかげにもつながってくるね。私共のその心がね、ただ燻らせておるだけではいけん、自分の心の中にですね、もう何かの機会、たんびんに、言うならば自分の信心が一歩前進するというような生き方を辿らして頂く、という事がですね、信心を進めていくという事ではないでしょうか。信心を進める、信心のお育てを頂く、とこう言うけれどもね、放っといて育つという事ではありませんね。育てられる方の側もね、育てて頂きたいという願いを持っておきませんとですね。
例えば、なら昨日私が、あ-苦しかったばってんお神酒でおかげを頂いた、というだけならおかげ頂いたというだけでしょうね。いうならば、そのもうあげなもんどん食べちゃ出けんばい、と言うてその事だけで終わるでしょね。というて、ならそう言うねまったプリンを食べろと、言うのじゃないですけれどもね、私の心の中に、いうならば、ちょっと神様の方へ心を向けさして頂いたらそのプリンが生きた。いうなら神愛の固まりであった、とさえ思われるようにおかげを頂いて、なら今日から二時間か三時間の御用が余分に出来るという事が、皆さんも喜んで下さるならば、神様もまた喜んで下さる事ね、だから皆さんの信心がね、昨日もその話が出たんですが、もうこれでよいと思うてはならないと言うこと。これで済んだとは思いませんね。そして、一足飛びにというのじゃなくて、これですんだとは思わんという信心が、何時も出来ておりますとです、何かの機会に、一分づつでも一厘づつでも進めていく手がかり、手立てというものがね分かってくる。感じられてくるのですね、信心というのはそのようにして進めていくもの。お徳の手がかりというものはね、何時も絶えず神様のほうへ、一分でも接近しょうという心の使い方からだというふうに思いますね。
本当は、例えば私共がですね、腹が痛かったりするような事があってはならぬ。けれどもまあだこちらが、それこそ大学目薬はしょんまっせん、というふうな歌がありましたね昔ね、だから、本当の大学であるならば、しょんまっせんで腹の痛むような事はないのだけれどもね、まあだ信心不足の処が、こんな痛みを感じなきゃ、苦しい思いをしなきゃならんのぞ、と神様は教えて下さった。いよいよもって、だからいうならば痛まんで済むほどしの、苦しまんで済むほどしのおかげを頂かな。けれども、そこにまた苦しまねばならない時にはです、そこから一段と信心をですね、進めていく手掛かりを得ようとする求道心が必要だという事でございます。
どうぞ。
この今の皆さん御理解を頂いて下さってですね、私は、どういう処に今日はヒントを頂いて、ああいう今日のようなふうな話をしたかと言うと、例えば映画を見ても芝居を見ても、一つのあの場面というのを取る時に、そこの、いうならば雰囲気がようなからなきゃいかんでしょう。同時にそのバックがようなければいけないでしょ。いうなら、景色の良い所でいろいろとるでしょうがね、もう景色を見とっただけでも素晴らしいような所で、その演出演技というものがあるようにですね。私共が一つ神様の方へ向こうていくという、いうならば演技をする場合でもね、何にもない時ではなかなか出来るもんじゃありません。その後先の雰囲気というものがですね、何ともいえんあの、いうなら場所とか時季とかというものが必ずあるです。だから、今日親先生が言うたから今日からやろうと言うような事では、バックもなからなければ雰囲気もないのでは、なかなか長続きせんです。ですから、その考えたってですね、昨日なんかは久富繁雄さんが見えてなかったでしょうがここ御祈念に、それに、私がお腹がせくで、そしたらせき出した頃に見えたでしょう昨日は、大体繁雄さんという人は、おそなったら絶対来なさらん人ですもんね、時間おくれたら、けども昨日は見えとったでしょう、あ、よかった、もう今日のあんたが来てくれた事は、というて御礼をま申しましたけども、その色んな事がおこっておる。
私が前の日から頂いておること、またずうっと寝ながらでも感じておる事の、そのお食事の時の事から「にら」一つの集まる事からですね、一つの何か神様がこう計っておられるでしょうね。場所もようなからないかん、雰囲気もようなからなね、そういう所に、なら改まると言うすきっとした演技が出来るわけです。だからね素晴らしいんです。だからお互いの信心を進めるというても、ただあの無茶苦茶じやなくて、はあ神様の言いござる事が聞こえてくるような思いをする時にはね、本気でそういうその、まあいうならば演技というかね。
昨日は、あのう梶原先生が親先生に先日からあの、信心の力と業という事の意味が分かりません、というて質問に来ました。それで私話した事ですけどもね、まあ力といゃあ勿論祈念力と言われるから、もうすさまじい祈念の出来る人は祈念力だけで助かる、おかげを頂くというような方があります。けれども、その神様を信ずるという力がまたピンからキリまであるんだよと、だから神様を信ずる力、または祈念力これがま力だろうと、いうてならハワイから来とる相撲取りじゃないですけれども、力は一番でしょうばってんコロッと負けるでしょうが、相手のこ、うまかっから、あら業でやられるとです。だから、あれに業がついたら素晴らしいのです。なら業というのは、なら今日私がここ座っとろがの、ね、例えば朝御無礼して何時間という時間をあの御無礼したから、その時間という取り戻そうとここに座っておる。こういう事が業だよと私は昨日話した事でした。
だからそういうね、例えばあのう秋永兄弟なんかがそういう業が非常にうまいですね。特に文男先生どんが場合なんかの話を聞きよって思うでしょうが。心の切り替え方というか、その業が素晴らしいです。だからあれに力がつきゃ、いよいよ素晴らしいんですけどね、力がたりない。だから、力も頂かなんならん、業もこう相俟って行かねばならん。というてこれは昨日修行生がそういう事の質問をしましたからね、そういう答えをした事でしたけれども、そういう業、力を頂くための言うならば精進が、何時もいわゆる求め続けられておらないと、そういうチヤンスを頂いても、ただおかげを頂いたというだけでおしまいになってしまうです。
どうぞ。